にがり絹ごし豆腐に明日を見た」 その一
それは今をさかのぼること七年ほど前の話です、当時、当店も不景気のあおりを受け売上が減りつつありまして、商いの見通しが暗くなってきておりました。町の小さなス−パ−などにもささやかながら卸売りをしていたのですが、こちらも売れ行きが悪くなる一方で、にっちもさっちも行かなくなってしまっていました。ここでどうにかしなければ、三代目を受け継いだ埼玉屋も、このままでは営んでいけなくなるという危機感から、再起を賭けた決断に迫られていました。熟慮した結果、「あれもこれも」ではいけないということで、多少、無茶な判断だとは思いましたが、豆腐の卸売りや学校給食納入等を取り止めまして、店頭での販売に重点を置くことに決めたのでした。
店頭販売重視路線に変更するにあたり、問題になったのは当店の立地条件でした。当店はいわゆる「駅前商店街」の中にある豆腐屋ではありません。車通りには面しているものの、京成電鉄お花茶屋駅からの人の流れが丁度途絶えるあたりにあります。このような立地条件では、余程の魅力の有る美味しい豆腐を造らないことには、これからは生き残れないのではないかと考えるに至りました。
お客様にとって、魅力ある豆腐とはどういう豆腐だろう?どういう豆腐がお客様の心を捉えることが出来るのだろう?
まずは、市場調査と言うと大げさですが、近所の新しい大手ス−パ−などに足を向け、どのような豆腐が出回っていて、どのような豆腐が売れているのかを調べてまわりました。この結果、葛飾界隈で、よく売れている豆腐とは、にがりを使用した絹ごし豆腐であることが解りました。早速、その売れ線のにがり絹ごし豆腐を買い求めて、当店の絹ごし豆腐と食べ比べてみることにしました。当時、当店の絹ごし豆腐は凝固剤として澄まし粉(硫酸カルシウム)とグルコノラクトンを自分で配合した物で造っていました。
自己評価なので客観的とは言えませんが、この比較の結果、弾力と滑らかさ、食感では当店の絹ごし豆腐が勝ってはいたものの、豆腐の味そのものとしてはにがりを使用したス−パ−の絹ごし豆腐に軍配があがりました。にがりで絹ごし豆腐を造ると、こんなに甘味がきわだち、大豆の味が出てくるのだ、と私は正直に驚いてしまいました。それと同時に、このままではいけない、これ以上の絹ごし豆腐を早急に造らなければ、埼玉屋に明るい明日はやってこない、という危機感をひしひしと感じたのでした。そんな不安感一杯の埼玉屋経営者としての私とは別に、新しい絹ごし豆腐造りに向けてわくわくしている豆腐職人としての自分がそこに居たのです。
そのあくる日、タイミングよく取り引きさせて頂いている大豆問屋さんが当店にみえたので、にがり絹ごし豆腐について聞いてみました。
「寄せ方としては埼玉屋さんがいつもやっているような寄せ方とまた違い、櫂で攪拌して反応させるのですが、にがりは寄り具合(豆腐の凝固反応)が極端に速く、一瞬で決まってしまいます。そしてその合わせ具合が過少でも過多でも良い絹ごし豆腐には成らないのです。豆乳の濃度とにがりの量などもそれに関係してきますし、経験が無い埼玉屋さんが、いきなりでは難しいのではないのでしょうか?」
私はこの「難しい」と言う言葉に、にがり凝固以上の速さで反応してしまいました。この「難しい」と言う言葉に挑むように、また、自分に言い聞かせるように、「やるしかない、きっとこのにがり絹ごし豆腐を造り上げることが出来れば明日につながる何かが見えてくるはずだ!」と、心の中で何度も繰り返しました。そしてその思いは、翌日の製造試験に賭けることにしました。
普段、私の枕元で目覚まし時計が鳴り響くのは午前四時、その日は、それよりも一時間ほど前に目が覚めてしまいました。はやる心を抑えつつ店舗に降り、冷水を顔にかけて心を引き締め、腰に巻く前掛けの紐もいつもより力を入れてぐっと締めました。そして、埼玉屋の明日につながる新しい豆腐造りの第一歩を踏み出したのでした。
(つづく)
葛飾 気合豆腐
埼玉屋本店
店主 新井 弘幸
浅草「並木藪蕎麦」で五年間修行後、祖父の遺言で在る意志を引き継ぎ家業(豆腐屋)に入り現在に至る。
光琳社 「食の科学」 2002年8月号に掲載分
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