「気合豆腐の心、そして故西野戌俊氏から頂いたお言葉」

読者の皆様がこの六月号を読んでいただいている頃は、美しい新緑の中、穏やかな暖かさになっていることでしょう。となると、冷奴がますます美味しい季節になっているわけで、当店での寄せ豆腐、ざる豆腐の製造量も増えていることでしょう。

 さて、その寄せ豆腐ですが、今を去ること二年ほど前に西野戌俊氏という方からありがたいお言葉を頂いたことがありました。と言いましても、西野氏ご本人から直接お言葉を頂いたのではなく、お嬢様の真理さんの電子メ−ルを通じて頂きました。その内容は、当店の寄せ豆腐を食していただいた感想でした。以下にそのメールの文章を紹介させて頂きます。

 「一昨日のお豆腐、しっかり堪能させていただきました。母が入院中の父に届けたのですが、父いわく「この豆腐は本物だ、これが豆腐というものだ!」とのたまったとか。埼玉屋さんのお豆腐に、すっかり魅せられたようです。買い出しのために、ちょくちょくお花茶屋近辺に伺うことになるかもしれません。
 もっと気の利いた感想が出るかと思ったのに(父は現役時代、講演とか評論とかモノ書きもしていたのですが)このひとことで、あとは黙々と食べていたそうです。本当においしいものを食べたときって、そんなものかもしれませんね。」

 
気合豆腐「寄せ」 この電子メールを読ませて頂いた時に「この豆腐は本物だ、これが豆腐というものだ!」という文字がパソコンの画面から飛び出して西野氏自身の声となり、私の耳に飛び込んで来たように感じました。造り手にとってこれほど有り難く、嬉しい言葉は他にありません。しかし、ただ喜んでいるだけではいけません。この言葉に応えるよう、より美味しい豆腐を造れるよう腕を磨こうという心意気も同時に大きくふくらませたのでした。その後は、大豆、凝固剤、豆腐に関する知識を得るために、日々、より一層の努力と勉強をしていくことになったのですが、それがやがて、豆腐屋にとって扱いにくい大豆品種「タマホマレ」の味を100%引き出した豆腐を造るという大きな目標達成に向けた原動力になっていったのだと思います。
 ですが残念なことに氏はその後十ヶ月ほど後に他界され、タマホマレの味を100%引き出すことのできた寄せ豆腐を口にして頂くことはかないませんでした。ほんの少しだけ時間が足らなかったのです。悔しくも氏と初めてお会いしたのが氏のお通夜の席となってしまいました。ご焼香の後、氏の遺影を見つめ、手と手を合わせた時に、私の心へ言葉にはできないような不思議な何かが伝わって来たのが感じとれました。それは、今にして思えば、「美味い豆腐をつくれよ」という、氏が私に贈ってくれた「気」だったのかも知れません。
 後日知ったのですが、氏が寄せ豆腐同様に愛して食していただいた当店のざる豆腐の笊(ざる)を、真理さんがそっとお棺の中にしのばせていただいたとのことです。きっと、氏は天国でも、この笊(ざる)でざる豆腐を楽しんでおられることでしょう。
 
 このように豆腐を通して人の気持ちが伝わっていくわけですが、最近はインタ−ネットを通して沢山の方々から励まし、勇気付けられるお言葉をいただいています。この皆様からのお気持ちは、私の心の中でぐっと凝縮して「気合」と変えて、豆腐造りに注入しております。特に豆腐の基本である寄せ豆腐造りに注ぎ込み、故西野戌俊氏から頂いたお言葉に恥じぬよう日々努力を重ねて行こうと思っております。どうぞ皆様、もしこれから先、私の「気」が少しでも足りないようでしたら、ほんの少しでも分けていただけると幸いです。

故西野戌俊氏の主な経歴

小学校教師、教育評論家。終戦直後、米軍GHQと文部省との会議に出席するなど、戦後日本の教育復興に奔走し、その後、教科書選定委員なども歴任した。そのかたわら、NET(日本教育テレビ・現テレビ朝日)の設立に関わり、また、神田にある交通博物館の監修、NHK教育テレビの理科教室の先生としてのレギュラー出演や、東映の理科教育映画の製作、滑w習研究社の小学生向け教育雑誌「科学」と「学習」の「にゃんころ先生の理科教室」連載および同誌の「付録」の企画、小学校理科教科書「新理科」(大日本図書梶jの制作担当などの他、毎日小学生新聞に道徳のコラムを連載する等々、70歳を過ぎるまで教育現場に立ってきた。最後に教壇に立ったのは昭和女子大学付属昭和小学校。まさに「初等理科教育・道徳教育の職人」として人生を真っ当したのである。


葛飾 気合豆腐
埼玉屋本店 
店主 新井 弘幸
浅草「並木藪蕎麦」で五年間修行後、祖父の遺言で在る意志を引き継ぎ家業(豆腐屋)に入り現在に至る。
光琳社 「食の科学」 2002年6月号に掲載分
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