Carlosの喰いしごき調査委員会

がまだせ島原編

第1話 そうめん警察の巻

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1.霧の中の検問
 その日は島原市内から雲仙方面に向かっていた。晴れていれば有明海と普賢岳を望みながら走る国道57号線は爽快至極なのだが、あいにくの空模様、標高が上がるにつれ霧が濃くなっていき、まさに雲仙は雲の中といった趣になってきた。道を進むに連れ視界が次第に悪くなっていき、ヘッドライトをつけてないと不安感を感じるまでになってきた。ましてや山道である、スピードなんか出せる状態ではなかった。
 国道がちょうど有家町に入ったあたりで、警官が二人、霧の中の測道で、我々の車を誘導しているではないか。ネズミ取りだろうか?いや、しかし、こんな霧の中、スピード違反する方が難しい(注1)。検問か?何か事件でも?とちょっと緊張しながら、その警官の誘導に従って、その道路脇にある展望台(注2)の駐車場に車を進めた。車を停めて窓を開けると、駐車場で待っていた別の警官がのぞき込んで話しかけてきた。
 「夏の交通安全週間週間でーす。有家町特産のおそうめんを食べていって下さい!」

2.島原そうめんと天草四郎
 この有家町と隣の西有家町は島原そうめんの産地である。特に西有家町の須川地区が島原そうめんの発祥の地とされており、いまでも両町ではそうめんを売る店が多い(注3)。このように島原半島でそうめんが作られるようになったのは江戸時代の初めの頃といわれている。
  1637年(寛永14年)、ときの島原藩主松倉重政の圧政と、過酷なキリシタン弾圧に耐えかねて、島原半島およびその南の天草の農民が原城跡(島原半島南部の南有馬町に位置する)に天草四郎時貞を頭に立てこもった。歴史に知られる「島原の乱」である。西国大名が大挙動員され鎮圧に向かったが、幕府側掃討軍の指揮官であった板倉重昌が戦死するなどし、3ヶ月以上の長期戦となった。結局、原城は落城、反乱軍は全員処刑となった。このときに島原半島南部の住民はことごとく絶えてしまったのである。
 住民の居なくなった島原半島には、かなり無理矢理な地域振興策が執られた。九州をはじめ各地から強制的に移民が集められてきたのである。瀬戸内方面(注4)、当時、幕府直轄領であった小豆島からも多くの移民が当地に集められてきたという。
 この小豆島もそうめんの産地である。聞くところによると1598年(慶長3年)に小豆島から伊勢参りに出かけた人がその帰路にある奈良の三輪でそうめん製造を学び持ち帰り始めたのが小豆島のそうめんの起源とされている。まさに島原の乱のおよそ40年前の話である。
 通説(注5)ではこの小豆島のそうめんが島原の乱後の強制移民によって伝えられたのが、島原そうめんの起源とされている。また、この地域で古くから良質のコムギが生産されていたことも、そうめんの一大産地となった大きな理由の一つであろう(注6)。

3.冷えてるけど、のびてる。
 亡くなった人の事を悪く書くのは気が引けるが、私の祖母はそうめんの産地、島原半島出身のくせに、生前、そうめんを美味しく調理していなかったようだ。
 麺類は茹でて置いておくとのびてしまうので、茹でたてを食べるのが鉄則である。そうめんもしかりである。私自身はあまり覚えていないが、私の母の話によると、祖母は「昼食はそうめんにしましょう」ということになると、かなり早いうちにそうめんを茹でしまい、器に盛って冷蔵庫で冷やしてから食卓に出していたそうだ。従って、バッチリ冷えてはいるけど、残念ながら、のびてしまっていることが多かったそうだ。(注8
 そうめんの鉄則を書いていて思いだしたので、もう一つ書きたい。
 外食でそうめんを食べることはあまりないが、たまに、食欲のない時にそうめんで軽く済ませようって気分の時がある。このとき、そうめんの薬味として練りワサビが添えられていることがある。こういったことは人の好みなので、とやかくは言えないが、やはり、そうめんにはワサビではなく、おろしショウガの方が合うだろう(注7)。
 茹でたてを冷水で洗ったそうめんをおろしショウガで食べる。これが私のそうめんの鉄則である。

4.検問突破!
 霧の国道57号線で検問に会い、そうめんを食べる羽目になった我々であるが、地元の人たちが目の前で茹でてくれたそうめんは殊の外美味しく、瞬く間に、3杯ものそうめんが私の胃袋へと消えていった。こんな検問ならいつでもOKである。
 美味しいそうめんに満足しつつ車に戻り、未だなお霧深い国道を雲仙へと走らせた。運転しながら、ふと、さっきの警官の誘導に従わず検問突破していたら、どうなっただろうかと想像してみた。
 渡哲也バリのサングラス刑事がショットガン片手に「前の車!停まってそうめん食べなさい!」と猛スピードで50台位のパトカーと共に追いかけて来るか、銭形警部バリのトレンチコートを先頭に警官が大挙して追いかけてくるか、はたまた、威嚇射撃を連発しながら目ん玉つながりのお巡りさんが追いかけてくるか...ちょっと、テレビの見過ぎか。



注1 スピード違反:このときCarlos、無違反ゴールドカード保持者であった。ちなみに世紀が明けて初の春の交通安全週間の中、40km制限の見通しの良い農道でのわずかなオーバーが元で、とっ捕まってしまった。次回更新時からゴールドでなくなる。トホホ。
注2 展望台:俵石展望台。非常に景色が良いので、晴れたときは足をとめてみることをお薦めする。
注3 そうめんを売る店: 国道251号線を走ると西有家町、有家町付近でそうめんの製造販売店が多く、中にはそうめんレストランを併設する店もある。製造販売店ならではなのが「そうめんの節」である。製造時にそうめんを棒に掛けていた部分を切り取った物で、味噌汁の実に入れると美味しい。ちなみにそうめんやそうめんの節を味噌汁に入れるときは、カボチャを入れると非常に良いマッチングを見せる。
注4 瀬戸内地方: Carlosの本名の姓は「松島」である。物の本によると、松島姓には二つの発祥の地がありその一つが瀬戸内地方なのだそうだ(ちなみにもう一つは信州伊那地方)。私の先祖もこのとき、瀬戸内から移住させられたんだろうか?
注5 通説: 小豆島説以外にも島原そうめんの由来は諸説有るようだ。例えば、そうめん製造法の特徴から見ると、島原そうめんは小豆島からではなく中国福建省から伝えられたとの説がある。島原は、江戸時代唯一の貿易港である長崎が近く、中国福建省からそうめんの製麺技術が伝わっても不思議はない。が、しかし、実際に小豆島からの移民が多くあったと言う事実があるので、「どうしても福建省説は捨て切れぬ!」とするなら、まず、小豆島からのそうめん製法の下地技術が移民によって伝えられ、後に福建省からの新技術導入がなされた、と考える方が自然かも?これについては今後も調査が必要。
注6 一大産地: 「聞き書き長崎の食事」(農文協)によると、昭和の初め頃は、須川地区の戸数の約一割がそうめん製造に携わっていたとのことである。そうめんの生産は冬場に行われることが多く、「半農半麺」の家内生産だったそうである。
注7 おろしショウガ: 冷やしうどんも絶対おろしショウガ! 逆に冷たいソバは断然ワサビ! ついでに言うと、醤油ラーメン、塩ラーメンは胡椒! 味噌ラーメン、トンコツラーメンはトウガラシ!
注8 私の祖母: 私の祖母はそうめんについては伸ばしてしまっていた様であるが、お料理は非常に得意な人であった。また、その年齢にしてモダンな食べ物に対しても果敢に挑戦され、自分のモノにしてしまう人で、ケーキ作りなども得意とされていた。病気で倒れられる直前まで、孫である私にケーキを焼いてくれていたことが思い出される。「本文で悪く書いてゴメンね、お婆ちゃん」


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